社会教育協会は2025年に創立100周年を迎えます。
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協会100年のあゆみ

創立当初

明治維新から半世紀余り、欧米に伍して近代化を進めていた日本は、大正12年(1923年)関東大震災という大災害に見舞われました。
社会変動と混乱の中で、それまで教育と言えば「学校教育」のみと思われていたのが、ようやく「社会教育」が認識されはじめ、大震災の翌年、文部省に社会教育局が新設されました。

本協会の創設者 小松謙助(部下の記事が不敬罪に問われ毎日新聞を辞職)は、今こそ民間の自発的教育運動推進の時との信念から、各界有志と相語らって協会設立を図り、大正14年(1925年)11月16日、財団法人社会教育協会として発足しました。
会長 阪谷芳郎、理事長 穂積重遠、常務理事 小松謙助という指導陣で、協会理事には当時の文部省の小尾範治社会教育課長も加わり、官民一体の運営が実現しました。

創立の翌年に機関紙「社会教育パンフレット」(月2回〜旬刊)を創刊。その後「国民」(月刊・平成2年まで)と改めました。
さらに「民衆文庫」後の「青年の文化」および女子青年団機関紙「処女の友」(月刊・昭和2年〜)、一般向け「婦人講座」(月刊・昭和5年〜)など、青年や女性を対象として啓発情報を数多く発信してきました。

苦難の時代

やがて日本は戦争の暗い時代に入ります。
「社会教育」という名前を冠している故に、本協会に対する風当たりが強くなりました。会名の変更を勧告されたこともありましたが、小松は「社会教育は名称ではなく信条である」と守り通しました。

昭和16年(1941年)、阪谷会長が逝去され、穂積重遠が会長となりました。同年12月には太平洋戦争が始まり、事業縮小を余儀なくされ、男子職員の多くは戦場に、徴用にと職場を離れました。その最中である昭和17年(1942年)に東京家庭学園と教育研究所を小石川区指ヶ谷町に開設、19年4月まで継続しました。国民教育の基礎としての「家庭教育」の体系的研究と婦人の育成を目指した背景には、穂積会長の信念と情熱が伺えます。

しかしこれらの学園、研究所、併設の寄宿舎も、協会の本館ともどもすべてが、昭和20年(1945年)5月の空襲で焼失したのでした。
これを機会に、小松が理事長に就任、焼け跡の中から協会の再建に奮闘しました。

戦後の復興

焼け出された直後、協会は元阪谷会長邸、小石川竜門社で終戦を迎えました。
昭和20年(1945年)9月には近くの東亜修道院の講堂と寄宿舎を借り、戦後経営に立ち上がります。活字に飢えた人々を相手に出版活動に邁進し、「社会教育文庫」「公民教育講座」等を出し、中でも穂積会長の「新訳論語」は好評を得て、戦後復興の機運を盛りあげました。
東京家庭学園も終戦の翌年に復活、開校し、昭和23年(1948年)には杉並区馬橋に協会本部と共に移転しました。
東京家庭学園は昭和28年(1953年)に「学校法人 白梅学園」として小平市で独立。70年余を経て現在に至っています。

さかのぼって昭和26年(1951年)、長年協会に尽力された穂積会長が逝去され、27年に社会教育理論を学説の主軸とされた牧野英一氏が会長となりました。30年には「成人手帳」(後に「はたちノート」に改称)、35年には「話しあいのひろば」を発刊。協会の会員各企業・団体で利用されました。

戦後の人心復興に協会は総力をあげて活動したと言えます。
しかしその矢先の昭和37年(1962年)1月、協会の創設者 小松理事長が逝去され、同年7月に有光次郎氏(元文部次官)が理事長に就任しました。

実践の場、日野社会教育センター

「社会教育実践の場」をという協会あげての悲願を継いだ有光理事長と日本図書館協会役員から日野市長に転じた有山崧(たかし)氏、さらに東京都の力添えがあり、昭和44年(1969年)7月に官民共同で、日野社会教育センター(地上3階、地下1階/約1,839㎡)が開設され、全国関係者から注目を浴びました。

昭和45年(1970年)には牧野会長が逝去され、藤井丙午理事が会長に、55年には藤井会長逝去の後、江戸英雄理事が会長に、昭和63年江戸会長辞任の後、山下静一理事が理事長に就任しました。

平成2年(1990年)に機関誌「国民」(月刊)を「生涯フォーラム」に改題しました。平成8年には松浦均理事が理事長に就任、10年には黑水恒男専務理事が理事長に就任しました。

IT時代となったここ20年ほど、日本は世界に先駆け、本格的少子高齢社会を迎え、住民が主役の社会教育・生涯学習活動が引き続き懸命に展開されました。
日野社会教育センターは、開設から50年間、市民のための、市民による、いわば地域住民の自立を支える社会教育実践の場となり、約500万人の老若男女が学び、つながり、生きがいを育んできました。
平成31年(2019年)4月には幅広い市民から託された寄付金と日野市の援助により新設された新館に移転しています。

歴史能力検定試験

平成9年(1997年)、急速なグローバル化に備え、社会全体での歴史認識を育てることを目的に、全国で「歴史能力認定試験」を始めました。第1回の受験者は4,000人でした。
その後、平成11年(1999年)に合否を判定する現在の「歴史能力検定試験」に衣替えし、今に続いています。

しかし中学校に於ける総合学習時間の減少等から、平成20年(2008年)の48,500人をピークに受験者数が急減、平成25年が13,000人、ここ数年は8,000人程度で推移しています。これからの地球時代の日本の将来を思い、何とか回復策をと考えており、令和4年度(2022年度)から高校で開始される新教科「歴史総合」を踏まえた内容で強化を図っています。